梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その78|東海道を外した港の整備――突貫工事で作ったよこはま道
これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。
東海道を外した港の整備――突貫工事で作ったよこはま道
1858年に結んだ通商条約で、幕府は函館、長崎、下田と神奈川を開港する約束をしたが、困ったのは神奈川である。神奈川の湊を外国人に開放するには問題が多すぎた。
和親条約・通商条約を結んで開国をしたが、世情は、勤王と佐幕派が国論を二分して激しく争う中にあり、どちらも開国を拒否して夷敵と戦うべしと開港政策に反対だった。
そんな中で、東海道の宿場の一つで往来の激しい神奈川宿に異国人を迎えれば、血気盛んな士族から彼等を守ることができない。さらに、江戸に近い神奈川の港を開けば、夷敵から攻撃を受けたら江戸が危険にさらされる危険がある。神奈川に港をつくるわけにはいかないのである。
開国を進めた井伊直弼が、安政7年に江戸城桜田門外で襲撃されたり、文久2年(1862年)には生麦でイギリス人が襲われるなど、政府の心配はもっともだった。
こうした中で苦肉の策として生まれてきたのが、神奈川の対岸に広がる横浜の砂州に港をつくるというアイデアであった。東海道からひと山越え、水深も十分にある。
問題は、アクセス道がないことだった。そこで、幕府は急きょ、東海道の芝生(しぼう)村から岡野-平沼-野毛を経て開港場に至る1里弱の道を普請した。
それが「よこはま道」である。東海道から開港場に向けてつくられた「よこはま道」の分岐点。写真は、国道1号東海道の浅間下交差点から港方向を望む。正面にランドマークタワーが見える。絹の道の終着地は、開港場に渡る吉田橋である。
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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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