梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その63|春と秋、年に2回の養蚕
これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。
春と秋、年に2回の養蚕
かつては桑都と称された八王子も、いま養蚕を行う家はわずか3軒。そのうちの1軒、加住町の長田誠一さん(44)は、養蚕農家が高齢化するなかで、40代で、養蚕の伝統を何とか守っていきたいと奮闘する八王子農協の若手養蚕家である。
八王子駅から滝山街道を下って車で20分ほど、このあたりは1500年頃には高月城、滝山城などの城下町として栄えたという。樹齢400年で、市の指定天然記念物の山桑「高月のクワ」も近くにある。
養蚕の様子については、東小金井にある東京農工大学の「科学博物館」(http://www.tuat.ac.jp/~museum/)にある生糸関連の博物館を参照されたい。
東京農工大学の前身は明治19年(1886年)に造られた農商務省蚕病試験場。その「 参考品陳列場」が、昭和27年(1952年)に博物館法に基づく「博物館相当施設」に指定され、平成20年度に、「東京農工大学科学博物館」になっている。
「私の家はもともとは小作農家で、養蚕を始めたのは明治30年頃、祖父の父の五右衛門の代からで、祖父喜兵衛の3人の姉たちが家で機を織っていたそうです。長田家としては私で12代目、養蚕農家としては5代目です。この母屋も五右衛門が建てたもので、昭和36,7年までは茅葺でした。その五右衛門は農業の傍ら生糸商人をはじめ、稼いだ資金で少しずつ畑を購入し、桑を栽培。10年ほど続けて桑を確保できるようになったところで、自分で養蚕・生糸づくりを始めたと聞いています」。
横浜が開国して生糸輸出がブームになっていたころのことである。地元や甲州から集まる生糸を買い付けて「絹の道」を通って横浜に運んでいたそうで、八王子から自宅に帰る道では、「途中で襲われるなんて言う危ない経験もしたようです」と長田さん。長田家の家業、養蚕は100年の歴史を経るが、いまは兼業という。
かつてこの地域には桑畑もたくさんあった。長田さん宅でも、父親の代に「年に5回の養蚕で、1トンも出荷したこともあったようですが、いまでは春蚕(5月~6月)と晩秋蚕(8月旬~9月)の2回だけで、他に、道の駅などに出荷する分も含めて年間飼育するのは10分の1の6万頭くらいになってしまいました」という。写真は毛羽や汚れが落とされてきれいにされた繭。純白できれいな出荷前の状態。
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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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