梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その58|八王子から横浜に向かう「絹の道」
これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。
八王子から横浜に向かう「絹の道」
こうした中で、八王子-横浜のルートが絹の道と呼ばれているには、鑓水商人と呼ばれる生糸商の存在が大きい。
幕末の時代まで、生糸取引の中心は京都・西陣であった。多摩地区には早くから生糸商人が多数存在し、特に八王子には鑓水商人と呼ばれる集団がいて、生糸商人として大きな勢力を誇っていた。生糸商人たちは、東北から上州に出て行って生糸を買い付け、それらを京都・西陣へ運んでいた。これを「登せ糸」という。
1859年に横浜が開港すると、永い間、京都へと流れていた生糸が、横浜へと流れるようになる。その時に中心になったのが、東北や上州、さらに甲州街道沿いの村々で生糸を購入し、生産者と強い関係を築いてきた多摩地区の鑓水商人であった。
鑓水商人たちは、幕末から明治にかけて、上州や南信州、甲州産の生糸を買い集め、それらを横浜に運んだ。小さな集落に過ぎない鑓水村は、外国商人も訪れるほどの隆盛を誇ったという。
もともと、八王子から鑓水-原町田-川井と経由して東海道に出る道は、八王子往還として利用されていた。そして、幕府が開港に合わせて、東海道から先、平沼-野毛と経由して、横浜港へと向かうアクセス道「浜街道」を整備したことで、八王子往還-浜街道と結ぶ「絹の交易路」が生まれることになった。
八王子・片倉から大塚山を越えて鑓水に入ると道了堂があった峠の入口に、絹の道の石碑がある。戦後建てられたものだが、以来、この道は八王子から横浜に通じるシルクロードとして、八王子市などによって整備された。
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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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