梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その54|横浜が生糸の輸出港として
これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。
横浜が生糸の輸出港として
ユーラシア大陸を横切って洋の東西を結ぶ数千キロの壮大なスケールには及びもつかないが、戦後になって、かつて日本にも同じように生糸を輸送した「絹の道」があったと、日本版シルクロードが見直されるようになった。
ペリーの来航以来、日本は、米英露蘭仏と通商条約を結び、1859年に横浜、長崎、函館の3港を開港した。これを機に、海外から多くの商人が押し寄せたが、彼等が日本で競うように買い求めたのが、お茶と生糸だった。
ちょうどそのころ、フランス、イタリアなど絹製品の生産国では、蚕が微粒子病に侵されて減少し、供給不足に陥っていたため、蚕種と生糸の確保は重要な課題だったのである。
それまで豊富な茶や生糸を供給してきた中国はアヘン戦争、太平天国の乱と続く混乱の中にあって、需要に応えて良質の生糸を供給できる状況ではなかった。そんな事情が、海外の商人たちに日本に目を向けさせることになったのだった。
横浜で生糸が売れるということで、国内生産が一気に活気づいた。政府にとって、生糸の輸出が唯一の外貨獲得策ということもあって、政府は、養蚕・製糸業を奨励する。各地で増産された生糸が、滝つぼに水が吸い込まれるように横浜に集まり、横浜は生糸輸出港としての地位を不動のものにする。
以後、80年間にわたって日本の輸出品目のトップを占めたのは生糸で、その80パーセント以上が、横浜港からの輸出であった(表1)。
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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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