梶文彦の「ニッポンものづくり紀行」 その37|<薬師寺・法隆寺>(2) コンクリートをヒノキが守る耐震設計
これからの日本のものづくりを見据えるために、過去の出来事やその成り立ちに関する情報を提供するコラム。発想を変えたい時やちょっとした仕事の合間にご覧ください。
<薬師寺・法隆寺>(2) コンクリートをヒノキが守る耐震設計
最新の科学で構造計算された高層ビルの耐震設計では、地震の力を弱めるように、ビルはくねくねと揺れるようになっています。スパコンが開発されて複雑な力の伝達を計算できるようになった結果、こうした設計が可能になったのですが、実は、薬師寺の三重塔である東塔も、これと同じ揺れ方をすると言います。
ある時、西岡棟梁が薬師寺で仕事をしている時に、大きな地震が起こった。心配になって東塔を見ると、なんと東塔は、三層の屋根が右に揺れると、二層は左に、一層は右に揺れるという具合で、揺れが各層で吸収されて、全体は大きく揺れていなかったというのを発見して驚いた、こんなことを、すでに1300年前の工人は考えていたのだろうか、と西岡棟梁は驚いたそうです。
薬師寺の再建にあたって、秘法の仏像の火災予防と耐震のために金堂の構造をコンクリートで囲めなさい、と文科省から指示された時に、ヒノキの部屋を造り、その中にコンクリートの部屋を作って仏像を安置。コンクリートの部屋に振動が及ばないように木で囲むという逆転の発想の「耐震設計」としたそうです。
薬師寺には、東塔だけが残り、西塔は礎石だけしかありませんでした。その西塔を再建した西岡棟梁は、完成した際に新聞記者が、「おねでとうございます」と言ってくれたときに、「ちっともめでとうないねん」、と返答したそうです。
「これから大地震があったとか、台風があったとかいうときに、東塔は倒れたけれども、西塔は立ってあったということにならんと、うれしゅうないねん。それまでは薄氷を踏む思いです」。宮大工としての矜持かもしれない。
8世紀の中頃、工人たちは、科学装置も情報機器もない時代に、木造建築物という、長時間のスパンでしか判断できない構造物を、どうして建造することがなぜできたのか。
私たちが頼ろうとする科学機器に勝る、生来の動物的な感知能力が、先人たちにあったのだろうか。科学技術を発達させ、利用する過程で、私たちが失ってきたものは想像以上に大きいのかもしれません。
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梶文彦氏執筆による、コラム「ニッポンものづくり紀行」です。梶氏は、長い期間にわたりものづくり企業の国内外でのコンサルティングに携わり、日本製造業を応援しています!
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